宇治屋の茶は(一)「樫」木炭ホイロ火入れ(二)空気にふれ(三)水分の調整をし、秘法であるホイロ製により、秘伝の目を通し一葉一葉撰別の上製撰した「手作りの茶」です。人工着色・人工甘味料を使用せず、自然のままの茶の味を消費者のご家庭にお届けする事「百五十年余」伝統・技術・信用により全国に類のない唯一のホイロ製茶の老舗です。
 
昭和25年11月/福岡県 福岡市西職人町(現在の中央区舞鶴2丁目)
「老舗宇治屋本店」二階で六代目亀岡政信の長男として現七代目亀岡 正茂生まれる。
 {左から六代目亀岡政信 妻辰枝 現七代目亀岡 正茂}
昭和25年11月30日写す
福岡市西職人町(現在の中央区舞鶴2丁目)「老舗宇治屋本店/旧工場内」
{左から三人目六代目亀岡政信/現七代目亀岡 正茂(当時四歳)その横妻辰枝/長女洋子(生まれたばかり)}
昭和29年9月30日写す
昭和五十年正月 福岡本店正月餅飾り
{六代目亀岡政信 当主}
昭和五十年「真空蔵出し缶詰販売のパンフレット」
(福岡市、宇治屋本店正面風景)
六代目亀岡政信「ホイロ製法実演のパンフレット」
 
本店の建物は江戸の末期安政年間の建物で「現存する福岡市で最古の民家」です。平成の大修理が6年掛けて平成12年11月に終了しました。
 建築時は海に3年半塩漬けした欅/桜の堅材を使用した木造建築で、外壁は、城壁などと同じ「漆喰(しっくい)造り」です。素晴らしくお城のようです。TV局や新聞、雑誌の取材も多いです。
 
 日本緑茶(今のような緑色の水色(出汁の色)はありません。乾燥後の茶葉が黒に近い濃緑色だからです)は戦前の消費が、「内地(国内)」と「貿易(外国輸出)」に分かれていました。
輸出は地中海沿岸(モロッコ、エジプトなど)米国の太平洋岸(ハワイ、カルフォルニアなど)そして中国(当時の清と満州国)です。輸出が3割ありました。
 地中海沿岸国は、トルコ、ロシアからの住民つまり外人部隊からの移住組が多く、彼らは「ビタミン補給」の為「高級な日本緑茶」を飲んでいました。当時の値段はコ−ヒ−の5倍と聞きます。
お茶は「非常に高貴な飲み物」です。コ-ヒ党の方には悪いのですが、英国では、今でも「葉(リ-フ)」と「豆(ビ-ンズ)」の文化の差を指摘されます。
 
今では、九州の緑茶の生産地(全国二位)ですが、戦前は輸入県でした。
当社も明治始めから「お茶や」を営んでおりました。仕入先は「宇治の問屋」からです。
 当然「宇治の茶」を販売していました。故に「屋号を宇治屋」と称し、昭和二十三年八月には、「宇治屋製茶貿易株式会社」として会社登記しました。資本金壱百万円でした。その当時は茶業者では「東京の山本山(株)」と当社だけでした。また単純な比較として当時の大学卒の給料が¥5000位と聞きますので、まだ1万円札は出来ていませんでした。
 
 九州で八女(やめ)と言ってもほとんど知られて無く、事実生産量が非常に少ない為です。鹿児島の一部に煎茶の伸茶と「釜製の玉緑茶(ぐり茶)」と嬉野や熊本の「釜製の玉緑茶(ぐり茶)」がまだ幅を利かせていました。まして「本土(つまり本州)」では、無名に近い物でした。
今では、九州の八女茶は有名ですが、それは高級玉露の生産高が全国の40%を占めるからです。昭和二十年代は、緑茶製茶法は、まだ玉露は「手揉み」でした。煎茶でも、手揉み製を「本製」。機械揉みを「機械製」と言っていた時代です。
昭和二十四年、八女郡星野村本星野の倉住福男製茶工場で「八女郡で初めての機械玉露荒茶」を当時の八木式四貫機(生葉が16kg粗揉から精揉まで出来る本当の小型製茶機)で製造した玉露荒茶、十六貫茶箱の五箱分、八女地方の産地商店が「星野は玉露の本製のなかに機械製を混ぜる」クレ-ムがきて全く売れませんでした。それを当社六代目、故亀岡政信が仕入れ、加工し、それを当時の京都府綴喜郡宇治田原村郷の口「宇治田原町林泉園本店」時田(ときだ)社長に販売したのが初めてです。
 故に当社は「八女星野機械八女玉露販売の祖者」と言える所以です。
 当時の玉露は甘いような、また酸っぱい様な味と聞きます。その後高度成長の中で八女星野を始め当時の上横山村、下横山村(現在の上陽町)、黒木村は「機械式玉露製造」に成っていきます。時代の先見性を見た六代目亀岡政信の目が光ります。
 
 日本一の大消費地は東京です。その東京茶商業協同組合理事で「東京、町屋の北村園本店、北村峰吉社長」に「九州の八女茶」の「ブランド茶」を初めて「大東京の消費地」に販売したのが「当社」が初めてです。その量は煎茶で十六貫茶箱十箱(約六百kg)です。「八女茶」の名前と味は、その時初めて「東京茶商業協同組合の組合員」に知られたのです。「やめ」と読める方は当時でも少なかった様です。
 「北村園本店、北村峰吉社長」は無くなりましたが「九州の八女茶は宇治屋の亀岡さんが初めてだ」といつも口癖でした。当社は「九州の八女茶/ブランド茶」を初めて「大東京の消費地」で東京販売を成功させたときから、営業の形態を「販売は茶店卸し」に変更します。東京だけではありません。静岡、京都、名古屋。大阪など販売して回りました。
その証拠は「画像6」にありますように昭和三十六年から「京阪電車宇治駅コンコ−ス」に当社広告に「宇治屋の八女玉露」広告があります。周りは宇治地方の有力問屋ばかりで「その中で九州の八女茶?」とかなり好奇な目と、一部怪訝な目で見られたものです。敵のソ連のなかでアメリカの宣伝をするような物ですから。しかし京阪電車宇治駅には「宇治平等院」があり全国から観光客が大勢きます。当然福岡県の方が来られて「福岡県八女」の宣伝があるのですから一気に注目されました。之は事実です。
 
     
     
     
 この火入れ(仕上げの練り火の乾燥法)を当社工場で行っていました。独特の味と薫りは「直火火入れ」で、可能に成ります。この人力と感に頼る古来の火入れ法は、現在九州では当社だけです。
 
 今では「お茶は鮮度」を言われますが、昭和五十年代は「店頭で袋詰め」が当たり前で「売り出し」の度に「インチキ」をするまた「管理が悪い為、香り抜け等の傷んだお茶を売る茶店」が多いものでした。その中で「定価」で「袋詰め」「缶詰」では、「儲けが少ない」と多くの取引先からブ-イング」でした。しかし六代目亀岡政信は「信念の人」であり「全てこれらの反対を受け付けませんでした。
 
 福岡本店では「茶師四十年のベテラン木村工場長と七代目当主、亀岡正茂」が「店頭焙煎室」で「特注の焙じ機」で「火入れ」をしていますのを見られます。また「木炭」と替わらない火力を持ち遠赤効果の強い最高500度まで発熱する「最新式焙炉機器」特許申請中で「最高の味」をだしています。何もありませんが「本当においしいお茶のみ」を創業百二十年の伝統がお届けします。
 
 
フクニチ新聞社(昭和54年12月14日付け「ル−ツわが町」記事抜粋)
{舞鶴二丁目の角、古い地番でいうと西職人町一番地に当たる場所にも今も白壁の土蔵造りの家が残っている。***ここで茶の製造販売を始め屋号を「宇治屋」と名乗った。戦災にもかからず現在も続いているが「宇治屋」の商号の通り始めは宇治の茶を扱っていた。今の当主亀岡 政信の代になって八女茶の栽培製造、販売に力を入れるようになり昭和三十年代の始めに工場も舞鶴から八女市に移した。}
 
西日本新聞社(昭和61年9月19日付け「老舗(しにせ)」記事抜粋)
{城下町・福岡。大通りから入った中央区舞鶴に、白壁のまぶしい古い店構えの「宇治屋」がある。創業は安政年間というから、もう百二十年ほどになる。店名は、もともと宇治茶を扱っていたことに由来するが、今では八女茶を卸し、小売りしている。五代目の主人、亀岡政信さん(七七)が戦前、八女茶に着目したのがきっかけ。九州では、当時、ごく一部で自前の分をまかなう程度の量しか栽培せれていなかったが、暖地のおかげで甘味があり、味の濃いものができていた。亀岡さんは、これを本格的に商品化、京阪、東京へ売り込んだ。東京などの老舗(しにせ)問屋では「八女茶を広めたのは宇治屋」との常識が定着している、という。出回り時期が早いこと、宇治の茶畑の宅地化などで、八女茶は“全国銘柄”になり、特に玉露は有名。宇治屋では、大戦前後かや八女の茶園と専属契約。無農薬栽培した茶を、特注カシの木炭の火で、八女和紙の上で手もみして乾燥させる「ホイロ製法」によって生産している。大量生産に押され、一時売り上げが落ちたが、自然食ブームの今、やや黄身がかった自然の茶の色が見直されてきている。店では、真空パックや缶入りの茶が、鮮度を保つため冷蔵庫に入れられている。八女に入りびたりの五代目に代わって、六代目の正茂さん(三六)は「自分の目を通した納得できる商品だけを売り、消費者に喜んでもらう、という店の哲学を守っていきたい」と話す。なかなかに渋い六代目である。}
 
 
     
八女工場 社長自ら焙炉製手造り茶製造風景
本社店頭正月風景
八女工場 初荷搬出 トラック積み込みの風景(大型15頓車)
八女工場御進物用焙炉製缶詰茶送り出し風景(八女郵便局無料出荷中)
八女工場 箱製作作業場(社長自ら箱書きの風景)
八女工場搬出風景(1万k余荷造り完了の風景)
今年五月に摘んだ香り高い一番茶を、当店店頭に新設の「火入れ室」にて茶仕事暦四十年のベテラン場長が実演販売致します。
●『出来たて』ご希望のお客様はご予約をいただくと確実です。

今年五月三0日茶店頭に新設の『火入れ室』にて『火入れ神事』を祭儀行し、香味焙煎・手作りホイロ製法のおいしいお茶が作れますことを六代目亀岡正茂社長はじめ従業員一同祈りました。


※祭主…神事を司る宮町光雲神社