店舗紹介

天を仰ぎ
我が地のお茶が世に知れて
栄え伸びゆく
限りなきょう 昭和五年
作詞 入道政信

宇治屋の茶は
(一)「樫」木炭ホイロ火入れ
(二)空気にふれ
(三)水分の調整をし、
秘法であるホイロ製により、秘伝の目を通し一葉一葉撰別の上製撰した「手作りの茶」です。
人工着色・人工甘味料を使用せず、自然のままの茶の味を消費者のご家庭にお届けする事「百五十年余」伝統・技術・信用により全国に類のない唯一のホイロ製茶の老舗です。

老舗宇治屋について

本店は江戸末期の安政年間に建造された、現存する福岡市で最古級の民家です。平成の大修理が6年掛けて平成12年11月に終了しました。海に3年半塩漬けした欅/桜の堅材を使用した日本家屋であり、外壁は城壁と同じ漆喰(しっくい)造りです。

お茶の近代史

戦前の緑茶は、黒に近い濃緑色をしており、その水色(すいしょく)も現在のような綺麗な薄緑色ではありませんでした。
国内生産された茶葉は、主に国内消費と国外輸出に二分されておりました。輸出先は地中海沿岸(モロッコ、エジプトなど)、米国太平洋沿岸(ハワイ、カリフォルニアなど)、そして中国です。輸出は3割程度でした。
実は地中海沿岸国はトルコ、ロシア出身の外国人部隊の移住者が多く、彼らは栄養補給のため、日本緑茶を愛飲しておりました。
当時の茶の値段はコーヒーの約5倍と言われており、高貴な飲み物として扱われておりました。

老舗宇治屋の誕生

今でこそ、福岡県の茶生産量は京都に次ぐ全国6位ですが、戦前は輸入県でした。
明治初期より当社はお茶屋を営んでおりました。京都宇治の問屋から茶を仕入れ、販売しておりましたゆえに、屋号を「宇治屋」と称しました。
昭和二十三年八月には、資本金100万円を投じ、「宇治屋製茶貿易株式会社」として設立登記いたしました。
当時この資本規模の茶業者といえば、東京の山本山と当社ぐらいのものでした。まだ一万円札が存在せず、葉書一枚2円、かけそば一杯15円、大卒初任給5,000円程度であった時代です。

無名だった八女茶

その生産量の少なさから、九州ですら「八女(やめ)」の知名度は長らく低いままでした。
当時の九州では、鹿児島における伸び煎茶、佐賀嬉野や熊本における釜炒りの玉緑茶(ぐり茶)が幅を利かせておりました。ましてや本州においては、八女茶は無名に等しい存在でありました。
今でこそ八女茶は有名ですが、それは高級茶の代名詞である「玉露」の生産高が全国の30%を占めているためです。
昭和二十年代、まだ玉露は「手揉み」によって作られておりました。手揉み製を本製、機械揉みを機械製と言っていた時代です。
昭和二十四年、八女郡星野村の倉住福男製茶工場において、当時最新の八木式四貫機(小型製茶機)を用いた、当地初の玉露荒茶が製造されました。生産量は十六貫茶箱五箱(300kg)に達しましたが、現地の商店からは「星野の茶は玉露の”本製”のなかに”機械製”を混ぜている!」との酷評の嵐。
それに苦戦していたところを六代目政信が仕入れ、加工し、京都・宇治田原村の林泉園本店(故・時田社長)に販売したのが、八女玉露が全国に知られる契機となりました。
ゆえに当社は「八女星野における、機械玉露売りの祖者」と言われることもございます。
それから高度経済成長期を経て、八女星野を始め上横山村・下横山村(現在の上陽町)や黒木村といった一帯での”機械式”玉露製造が主流となっていきました。
時代の変化、テクノロジーの進歩をいち早く取り入れた、六代目政信の慧眼と言えるでしょう。

宇治屋製茶は八女茶売りの先駆け

ほぼ地産地消されており、知名度の低かった八女茶を、初めて東京に売り込んだのが当社でした。
当時の東京茶商業協同組合理事であった、北村園本店(東京都荒川区)の故・北村峰吉社長に「ブランド茶」として、十六貫茶箱十箱(600kg)の八女茶を売り込んだことが始まりでした。
その時初めて、八女茶の名と味が東京の茶業者たちに知られることとなりました。「やめ」と読める方は、当時の業界人ですら少数だったと聞きます。
故・北村社長は生前、「九州の八女茶は、宇治屋の亀岡さんが初めてだ」というのが口癖でした。
大消費地東京への八女茶の売り込みが功を奏したことから、営業形態に卸売が加わりました。
東京だけでなく、静岡、京都、名古屋、大阪など全国を販売して回りました。
昭和三十六年にはあえて京阪宇治駅のコンコースに、「宇治屋の八女玉露」広告を掲出しておりました(写真)。
周りは宇治地方の有力問屋ばかりであり、その中で九州の茶売りは好奇な目、怪訝な目に映ったことでしょう。
しかし平等院鳳凰堂を目当てに全国津々浦々の参拝客が年間二百万人近く訪れるため、宣伝効果は抜群でした。
もちろん、福岡から来た観光客にも「福岡県八女」の宣伝が目に留まるわけでした。